藤原麻衣

我が校には毎週『空想科学 図書館通信』というFAXが送られてきます。
「空想科学研究所は「人間の想像力が生み出した空想の世界」を科学的に検証し、空想と科学の魅力を伝え」ることを目的に、柳田理科雄さんが執筆されています。
テーマとなる「今週の質問」は、『ドカベン』や『プリキュア』『ポケモン』など…アニメや漫画、SFドラマから採用されています。
検証の内容は私にはちんぷんかんぷんなのですが、理系の先生は面白い、とおっしゃっていたので、わかる人にはわかるみたいです。理系のみなさん、理系を目指すみなさんはどうですか?

この通信の最後に、検証内容とは別に『理科雄春秋』というコラムが載っています。そこに、以下のようなことが書かれていました。

文部科学省が国公立大学に「人文社会系の学部・大学院の規模縮小・統廃合」を通達した。
日頃から科学科学科学と言っている僕も、これには全く賛成しない。科学は自然について、人文社会は人間や社会について考える。この両輪の片方を小さくしたり、取ったりしたら、車は未来に向かって走れない。
目的は「社会的要請の高い分野への転換」だという。最近ことに強くなってきた成果や効率への志向が、大学にまで及んできたということだ。その結果、大工道具や包丁を仕える人が減り、街はチェーン店だらけになった。学問の世界がそれでいいはずがない。
役に立ちそうにないことをコツコツ続ける、それが思わぬところで花を咲かせ、あるいは他の木々の肥料になる。それが学問だと思う。

古典を教えていて、時折「昔の事なんて知ってどうするの?」聞かれることがあるのですが、「人文社会は人間や社会について考える」のだ、という言葉に「ああ、これだなあ。」と思いました。学校にいる間に接する人間なんて、僅かなものです。けれど、古典を通じて、さまざまな人を知ることができます。たとえそれがフィクションでも、その中には当時の世情が反映されているのではないでしょうか。あるいは普遍の価値観が反映されているのではないでしょうか。
社会に出ると、こういう人がいるんだなあ。こういう人になりたいなあ。こういう人にはなっちゃダメだなあ。
古典に限らず、英語や現代文などの文章を読むことで、様々なことを感じてもらいたいなあと思いました。

また、最後の一文にはっとさせられました。理系の人(理系に進みたい人)にとって、国語なんて、英語なんて、将来何の役に立つの?と思っている人は少なからずいるのではないでしょうか。逆に、数学なんて…化学なんて…と思っている人も。
そういう考えを吹き飛ばしてくれる一文でした。

私は大学時代、中国の近大文学とキリスト教を結びつけた考察をしたことがあります。キリスト教徒でもない私がこのような考察ができたのは、カトリックミッション校で過ごした経験があったからこそだと思います。
何が役に立つかはわからないのです。中学生、高校生にとっては遠い未来のことのようで、遠い未来のためにいま面倒なことに、役に立たなさそうなことに時間を割くことは苦痛かもしれません。けれども、それが大切なんだ、と私はこれからも口を酸っぱくして言い続けることでしょう。

奇しくも、一昨年の学校目標が「車の両輪」でした。こんなところで再び出会うとは…縁の深い言葉だなあとしみじみとしたのでした。