主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ

「ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブの家のもとに、一人の召使いが報告に来た。
『御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。』
彼が話し終わらないうちに、また一人が来て言った。
『御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。』
彼が話し終わらないうちに、また一人来て言った。
『御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。』
彼が話し終わらないうちに、更にもう一人来て言った。
『御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。』
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
『わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。』
『旧約聖書』「ヨブ記」1章13節~21節

何という理不尽な話だろう、現代に生きる我々からすれば、そのように思える話です。『旧約聖書』に登場する「神」は、しばしばこのような恐ろしい面を見せます。興味のある方は、バベルの塔の話、ノアの箱舟の話、ソドムとゴモラの話なども参照してみてください。このような話を聖書に載せて、人々に神の言うことに絶対服従しなさい、と言っても、現代の人間からは受け入れがたいような気がします。

しかし、次に述べるお話を参考にしてもらえれば、この聖書のお話も我々の教訓となるところが多くあるように思います。

ある禅寺のお坊さんが、ある寄稿文で、明石家さんまさんのことを激賞されておられました。彼の生き様、発言が非常に深い示唆に富んでいる、というのです。さんまさんの発言とは、「人間裸で生まれてくるんやから、死ぬときにパンツ1枚はいていたら勝ちやないか」というものです。この言葉が、禅の考え方とよくマッチしているということで、とても評価しておられたわけです。禅には、「無一物」という言葉があります。この言葉は、もともとは「身体も心もそのように立派なものではない。もともと実体など無い(本来無一物)のだ」という意味ですが、「物」に固執してはいけない、というように考えることもできます。そういう意味で、さんまさんの言葉ともつながってくるわけです。多くの物を持っていても、死ぬときにはあの世まで持っていくことはできません。であれば、確かにパンツ1枚でも十分すぎる、と言えるでしょう。

聖書のお話にもどります。ヨブは当然、禅の考えを知っていたわけではありません。「主は与え、主は奪う」という表現をとっていますが、もともとは誰しも裸であったということについても言及しています。本来は神の偉大さを称える箇所なのかもしれませんが、我々現代の人間にとっては、人間の本来のあり方という意味でこそ、大きな教訓を持っているように思います。