南 正人

前回(2月24日)の「百人一筆」で「自己責任回避語尾」について書いたのだけれど、その後先日のWBCで(相当熱心に観ていたのだけれど)、そのヒーローインタビューを聞いていて(誰だったか忘れてしまったのだけれど、大谷選手ではなかった)、とても気になる表現があった。
それは「語尾」ではないし、「新しい表現」でもないのだけれど、「~じゃないですけど」というものだ。その人はそれを多用していた。
「1打席目は凡打してしまって、残念じゃないですけどダメでしたが、2打席目は会心じゃないですけど、タイムリーヒットが打てて良かったと思っています。次の試合も、命がけじゃないですけどそんな気持ちで頑張ります」というように……。
どうして「1打席目は凡打してしまって、残念でしたが、2打席目は会心の当たりのタイムリーヒットが打てて良かったと思っています。次の試合も、命がけで頑張ります」ではいけなかったのだろうか。彼としては、誰かから「『残念』なんて何を傍観者的な発言をしているんだ」「あれで『会心』なのか、ちょっと詰まっていたんじゃないのか」「おまえは、本当に次の試合に命をかけるんだな。ってことは、頑張らなかったら、死ぬってことだな」という批判を封じ込めるために、「だから、『残念、じゃない』『会心、じゃない』『命がけ、じゃない』って言ったじゃないですか」と言い訳するためにそう言っていたのだろう。それって、なんだかちょっと格好悪い気がする。確かにスポーツ選手の「ビッグマウス」には、辟易する時もあるのだけれど、この「じゃないですけど」は、決して謙虚な表現ではなく、ただ他人から批判されないための姑息な言い逃れ表現だと思う。
まぁ、こんな表現は若い君たちは、あまり使わないだろうから、「自己責任を回避したい」と考えているのは若い人に限ったことではないのだろう。いやむしろ、大人の方が必死になって自己責任を回避しようとしているのかもしれない。例えばもう一つ、お年寄りの、しかもちょっと偉い人なんかで、「いわゆる」を多用する人がいる。「こういう人はいわゆるダメな人で……」なんて……。これは「俺のことをおまえは今『ダメな人』って言ったな」と言われた時、「私はそんなこと言っていませんし、思ってもいません。だからいわゆるって言ったでしょ。いわゆるっていうのは、世間一般に言われているという意味で、私個人の意見ではありません」と言い逃れするための表現だ。
どうか、君たちには、「~じゃないですけど」や「いわゆる」を多用しないいわゆる立派で正々堂々としたじゃないですけど、そんな大人になってほしいと願っています。