“1.17・・・”      大音雅子

12月23日に百人一筆を担当させていただき、早くも再登場をお許しください。

私もまさかこんなに早くの登場があるとは夢にも思わず、担当発表の表を気楽に眺めておりますと、なんと!1月に自分の名前が!「いつ? 1月17日。」その数字の並びにハッとしました。そうです。

1995年1月17日5時46分に阪神淡路大震災が発生し、戦後に発生した自然災害全体でも、東日本大震災が発生するまでは最悪のものとなりました。

ちょうど今日と同じ火曜日の早朝、当時泉南に住んでいた私は、まだ夢の中。ガタガタガタという揺れで目覚め、ベッドに座ったものの、揺れは収まるどころか強い横揺れが続き、一緒に寝ていた子どもたちの頭から布団をかぶせ、そばにあった本棚が倒れてこないように押さえながら、収まるのを待ちました。日の出にはまだ時間があり、真っ暗な中、ふと見回すと室内はどこにも明りがない・・・“停電”と気づき、すぐに外を見ると明りが見えるのは、多奈川発電所と以前から自家発電装置を持っていると聞いていた和菓子製造業者の建物のみ。まだ防災意識の低かった我が家は、懐中電灯はあるものの電池のラジオを持たず、どこでどんな範囲で起こった地震なのかもわからないまま夜明けをむかえ、電気のない不自由さを感じながら、ガス台を使ってパンを焼いたりして朝食を済ませ、停電が解消されるのを待ちました。そして、通電と同時に点いたテレビ画面に映し出された映像に絶句、しばし呆然と眺めることしかできませんでした。長田地区で起こっている大きな火災の様子、見慣れた高速道路が橋脚からグニャリ。折れた道路の端から半分はみ出した車。あの神戸の素敵な街が・・・と。

その夕方、北西の空に、黒い大きな雲のような塊が押し寄せて来るのが見え、「雨雲?いや、いつもの天気の下り坂に現れる雨雲の方向とは少し違う北寄り。え!ひょっとしてあれは、長田地区の火事による黒煙?!」信じたくないけれど、現実でした。

翌日、仕事のため車で大きな道路に出た時、またこれまでに見たことがない光景に出くわすことになりました。それは「長距離トラックの壁」西に向かう陸路を絶たれた物流の長距離トラックが、海路を求め、当時まだ就航していたフェリーの乗り場に大阪から和歌山からと集中し、数珠つなぎとなっての壁でした。一旦道路に出ると、戻ることは叶わず、その日は仕事を終えた後、和歌山に車を置いて、電車で帰りました。

阪神地区での災害。気になっていたのは、甲子園球場そばにひとり暮らす叔母の安否でしたが、家は倒壊を免れたものの窓ガラスは割れて粉々、冷蔵庫も倒れ・・・ということで近くの避難所にいると連絡が入り、まず安堵。「何か困っているものは?」との問に、「カセットコンロとか。。。」と頼まれたものを持って、翌日に甲子園までは運行していた阪神電車に乗って叔母を訪ねました。幼い頃から夏休みや春休みに訪れていた懐かしい祖母・叔母の家までの道中、あちこち家屋が倒壊し、道路は液状化現象で盛り上がったり、亀裂が入ったりしていて、あまりの状況に現実と受け止められず、夢の中にいるようで、今も断片的にしか記憶がありません。叔母の家の中に入ろうとすると、「靴は履いたままでね」。なるほど、家の中は割れた窓ガラスや食器などで埋め尽くされていました。

阪神淡路大震災が発生した年は「防災元年」と呼ばれ、防災意識が高まるきっかけとなり28年。2011年には東日本大震災が、津波や原発事故など別要素も伴う災害となり、近年に起こるであろうとされる南海トラフ地震などへの懸念もあって、防災意識はさらに高まりつつあるとはいえ、私自身実際どれほど備えられているかというとお粗末な物だと感じています。

時は流れ、阪神淡路大震災を知らない世代も増えつつあり、「経験を風化させまい」とさまざまな取り組みが行なわれ、「震災を知らない世代だからこそ語り継がなければ」と語り部を行なっている若者の活動も新聞に掲載されていました。

その体験を「繋ぐ」という気持ちが、今年のテーマとして今日神戸の街ではさまざまな集まりが行なわれたとのこと。

震災の犠牲となられた方々に改めて哀悼の意を表します。

人間はついつい「喉元過ぎれば熱さを忘れる」生き物。今、私たちはコロナ禍を経験する中で、「普通がいつも普通にあるわけではない」ということを痛感しています。それは震災経験を通しても感じられ、忘れてはいけないことだと感じ、今日の百人一筆は自分の心に経験を刻むつもりで、書かせていただきました。

一昨日共通テストが終わり、いよいよ本格化する受験に高3生。信愛を受けてくださろうとしている受験生、そして、全国のすべての受験生。精一杯受験に向き合い、後悔することがないよう、今を生きてください。

Good luck!!!