南 正人

「今日は何の日?」と言われて、1941年の「太平洋戦争開戦記念日」を思い浮かべる人は、70歳以上の人だろうか。50歳以上の僕たちは「ジョン・レノンの命日」と答えるはずだ。1980年の今日、ビートルズのメンバーだったジョン・レノンがニューヨークの自宅アパート前で熱狂的なファン、マーク・チャプマンにピストルで撃たれて死亡した。
高校2年生だった僕は、そのニュースを深夜放送のラジオで知った。そのニュースに接して、僕はすごくショックを受けた。と言っても、ジョン・レノンが死んだことにショックを受けたのではない。もちろん、ビートルズもジョン・レノンも知ってはいたけれど、その死がものすごくショックというわけではなかった。それよりもその年の10月に山口百恵が芸能界を引退したことの方がよほどショックだった。
では、いったい何がそんなにショックだったのかというと、その深夜ラジオのパーソナリティーが泣いていたことだ。今でもそうかもしれないけれど、当時の深夜ラジオはとても軽薄で下品で、だから面白かった。そのラジオのパーソナリティーと、それから次々に出てくるゲストがみんな泣いていたのだ。いつもはちょっと尖ったロックンローラーたちが、そろいもそろってジョンの死を悼んで泣いていた。
会ったこともない人の死が、人をそんなに悲しませることがあるのか。
僕はその事実にショックを受けた。当時の僕には、そんな人はいなかったから……。
君達にはいるだろうか? もちろん、会ったこともない人で、その死を知って涙に暮れてしまうような人が……。
こんなことを言われて、あの人が死んだら……この人が死んだら……なんて、人の死を想像するのは、とっても不謹慎に思われるかもしれない。けれども、「死を思うこと」と「生を思うこと」は、同義だと僕は思っている。そして、若い君達は、たくさんの「生を思う」必要があり、だから、たくさんの「死を思」わなければならない。会ったことのない人だけでなく、身近な人の死についても……。
11月はキリスト教では「死者の月、死を想う月」でした。また、高校2年生は2学期に夏目漱石の「こころ」を勉強しました。もう12月になってしまったし、期末試験も終わってしまったけれど、12月は「死を思う」には、適した月なのかもしれません。
お正月が「おめでたい」のは、生命の更新、つまりそれまでの自分が一度死に、新しい命に改められると考えられているからです(だから、昔はお正月に全員が一つ年を取りました)。ということは、来たるべき「生命の更新」の日に向け、この時期に「生と死」について考えることは、大切なことなのかもしれません。