高山右近の列福式から2月7日で早1年です。去年の今頃、生徒たちは列福式のミサで歌う聖歌の練習をしていました。和歌山信愛中学高等学校からも100名程の生徒が参加しました。当日はとても寒い日にも関わらず、若いエネルギッシュの歌声が大阪城ホールに響きわたり天の国にも届いたように思い、喜びと達成感に包まれました。
私が高山右近を知ったのは、小学1年生の頃です。私は祖母に連れられて毎週金曜日の夜のミサに与っていました。その時『高山右近の列福を求める祈り』をしていたのです。私は祈りつつ「この人はいったい何者なんだろう・・・?」と思い、祖母に尋ねたところ、「高山右近はとても偉いお殿様だったけれど、神様に従って命を捧げた人で福者として認められるように運動しているので心を込めてお祈りしなさいね」と教えてもらいました。それ以来、私の中に刻まれましたが、右近の死は殉教ではなく、病死だったので列福は難しいと言われていたことから、なかなか列福されずに月日だけが流れて私も忘れていました。それが「殉教者として列福が決まった」との知らせに、その意外性にビックリしたことと、「右近の生き方が報われた」と自分のことのように嬉しかったのです。(右近の場合は、長年に渡る迫害に耐え、ぶれずに信仰を貫いたことは殉教にあたると認められたから)
右近の死から約400年間という長い年月を経ての2017年2月7日に列福したのです。
高山右近は摂津国高山の武士の家系で、父親の影響で10才で洗礼を受け、受洗から24年後、明石の領主をしていたとき、豊臣秀吉に棄教を迫られ、「キリスト教を捨てよ、ということに関しては、たとえ全世界を与えるからと言われても、真の救いと引き換えにはできません。私の身柄や封禄や領地のことは、太閤様の思うとおりになさってください。」と返答し、大名の地位を失いました。1614年には江戸幕府の禁教令で国外追放となり、1615年2月3日にフィリピンのマニラで熱病にかかり死去しました。
右近は、大名でしたが、富や名誉、権力に勝って、神の愛こそが、人を幸せにすることを確信し、どのような誘いや迫害にあっても、また祖国を追われても、その確信に生き、生涯を閉じた人です。時代が変わっても、時の流れを見極めながら、自分の生き方を律し、ぶれない考えを持って生涯を歩んだ「右近の生き方」に私たちも倣うものがあるのではないでしょうか。