すでにニュース等でご存じの方も多いと思いますが、昨日、大阪城ホールにおきまして高山右近の列福式が行われました。何と、ローマ法王庁から列聖省長官を務めるアンジェロ=アマート枢機卿が来られ、司式してくださいました。聖人に列せられる列聖とは違い、福者に列せられる列福であるため、格式では聖人には劣りますが、それでも高山右近の列聖に向けての第一歩が刻まれたのです。
式典には、高山右近ゆかりのフィリピンからの司教様や信者の方々を始め、カトリック信者が比較的多い韓国やベトナム、カンボジアなどからも大勢の方が集まってくださいました。まさにアジアにおけるカトリックのサミットという形を呈していたと思います。
さて、高山右近とはそもそも何者なのでしょうか。
高山右近は日本でも最も有名なキリシタン大名の一人です。禄こそ最高で6万石ということで、大名としては小さな存在でしかありませんでしたが、戦国の社会に与えた影響は決して小さなものではありませんでした。黒田官兵衛や蒲生氏郷、細川ガラシャなども彼の影響でキリシタンとなっています。また、茶人としても優れており、利休七哲の一人にも数えられます。さらに、織田信長や豊臣秀吉からもしばしば顕彰され、武勇だけでなく人格も高く評価されていました。
いったい彼のどういうところがそれほど多くの人々の心を引きつけたのでしょうか。それは、「無私」という一言につきると思います。
高山右近が織田信長の陪臣で高槻城主であったとき、直接の主君にあたる荒木村重が信長に対して反逆しました。信長は激怒し、右近が村重に荷担すれば宣教師たちを虐殺するとまで伝えてきました。このとき右近のとった行動は、常人には理解しがたいものでした。何と、粗末な衣一つで信長の前に出頭し、死を請うたのです。交通の要衝であった高槻城主右近が村重についていれば、信長の畿内制覇は根底から揺らぎかねませんでした。信長は喜んで右近を許し、引き続き高槻城を任せます。そして、右近自身は信長の直臣となったのでした。
また、右近は教会の建設などには自ら率先して資材を運ぶなど、およそ大名らしからぬ労働をもやったと伝わっています。彼の居た所にはつねに、キリスト教の共同体が建設されました。豊臣秀吉がバテレン追放令を出した後、黒田官兵衛などがキリスト教信仰を捨てるなかで、右近は逆に大名としての地位と領地を捨てています。
これらの行動から、彼の「無私」という行動指針が見受けられるのではないでしょうか。最後も、幕府の追放令に従容と従い、フィリピンへの追放を受け入れます。当時の日本人にとって瘴癘の地であったフィリピンに追放されることは、非常に厳しい決断だったと思われます。しかし、「無私」の心である右近は、自分のフィリピンでの建康や生活のことよりも、日本におけるキリスト教信仰の灯火に思いを馳せていたように思います。
話を列福式にもどします。1万人もの方々が、3時間にも及ぶ式典に参加するというのは、ものすごく大変なことだと思います。海外から参加される方は、準備や移動時間も含めると数日間もの時間を費やしているのです。そして、我が和歌山信愛中学校・高等学校からも、中学校1年生から高校2年生まで合わせて77名の生徒が聖歌隊として参加させていただきました。早朝の6時過ぎに集合した生徒もいます。練習も、お昼休みのお弁当を食べる時間をけずって、3カ月以上続けてきました。右近のために自分の時間を費やす、これこそ、「無私」の心ではないでしょうか。
個人主義が発達した現代では、ついつい「私」を優先させる人が増えています。ネットなどでは「私」の価値観をおしつけ、他人に対する攻撃が繰り返されます。アメリカやイギリスなどでも、「私」の国が第一であるとする大衆迎合的な民主主義が台頭しています。しかし、「無私」をつらぬいた右近がこの現代において列福されたということは、我々の生き方を改めて考えさせてくれるように思います。