「エビフライ」      石田晋司

「好物は」と聞かれると、私は「エビフライ」と答える。

ここで私がイメージする「エビフライ」は、○○で有名とか、頭のついた巨大なものではなく、どこのレストランでも普通に提供されるサイズのものである。そして、私がエビフライ好きなのには、少し事情がある。

小学生の頃、知り合いのおじさんにレストランに連れてもらい、「何でも好きなものを注文しなさい」と言われた。私は、メニューを見て少し遠慮してトンカツをお願いした。ところがおじさんは「もっと高いのにしなさい」と言って、勝手にエビフライを注文した。トンカツでもごちそうだったのに、いきなりのエビフライに内心わくわくした。

まもなく頭のついていない2匹のエビフライが出てきた。不慣れなナイフとフォークを駆使し味わいながら身を食べ、さらに尻尾を食べようとしたとき、突然おじさんから尻尾は食べないように止められた。

おじさんは、両の手のひらを見せながら「晋ちゃん(私です)おじさんの手見てみ、きれいやろ。手真っ黒にせんでも、おじさんはおいしいもん毎日でも食べられるんや。エビフライは尻尾まで食べたらあかん。おいしいもんでも少しは残すもんや。」おじさんの話はよくわからなかったし、私の父母は毎日遅くまで手を真っ黒にして働いていたので、嫌な気がして、その後の1匹は味がわからなかった。けれども「おいしいもんでも少しは残すもんや」は、その後度々思い出すことがあった。

さて、昨年高校2年生のみなさんの修学旅行を引率した。夕食時、何人かの生徒が揚げ物や煮物、生ものなど「食べられないから」「もったいないので」と、私のところに持ってきた。私は何人分も料理を食べながら、幼い頃の「エビフライ」を思い出し、「おいしいもんでも少しは残すもんや」は、今の時代には全くふさわしくない言葉だと感じた。何より、和歌山信愛の生徒たちが、食べ物を残さない事を意識していることに驚いた。SDGsと言われる社会で、学校でも家庭でも良き社会人になるための教育が出来ているのだと感心した。

さて「エビフライ」、尻尾を残せと言われて以来、私は禁じられた尻尾から食べている。だから私の食べたエビフライのお皿は、猫ちゃんがなめたように美しくなるのである。