「国語の成績を上げるためには、やっぱり読書が大事ですよねぇ」とは、よく訊かれることである。答えは「その通り」なのだが、そう答えながら、なんだか読書を貶めているような感覚に捕らわれる。
別に僕は「読書」を崇高なものだと考えているわけではない。活字中毒の僕にとって、「読書」は、崇高どころかもはや趣味ですらない。「中毒」なのだから、それはもうニコチンやアルコールと同じで、「止められないからやっている」ちょっと恥ずかしい行為になっている。
ただ、読書が国語の成績を上げるためだけの手段に成り下がるのは、我慢がならない。読書はそんなことのためにあるわけではない。
「じゃぁ、何のために読書するんだよ」と言われて、なかなかうまい回答を見つけられずにいた。
で、先日僕の敬愛する朝井リョウ氏(この人は若いくせに、僕の感性にとてもぴったりくる)の『風と共にゆとりぬ』(エッセイ集)の「子どもにとっての言葉」の章にこういう文章が載っていた。感動したので、ここに引用しておきます。
言葉は時に、他の何よりも、私たちのことを助けてくれる。特に、財も力もない「子ども」という時代を生き抜く上で、本から授かる言葉そのものや、本の中の多くの言葉に触れるという経験は、自分を守る盾になりうると私は思っている。
最近、悲しい事件が続いている。いじめによって、十代の子どもたちが自ら命を絶つ道を選んでいる。
子どもだった私にも、人並みには、他人から投げつけられた言葉に傷つく機会があった。その言葉がお腹の底のほうにずっしりと溜まり、固まり、重しのようになってしまい、体が動かなくなる夜もあった。
そんなとき、私を助けてくれたのは、フィクションの中とはいえ「多くの言葉に触れるという経験」だったような気がする。
心ない言葉を投げつけられたとしても、私は、それでも物語の中を生きていく主人公の姿を知っていた。そして、心ない言葉を投げつけるしかなかった人の頭の中を丁寧に描いてくれた作品だって、多くあった。フィクションの中とはいえ多くの言葉に触れていると、その言葉に現実世界で出会ったとき、それがたとえ巨大な悪意に満ちたものであったとしても、心に一枚、盾を張ることができていたような気がするのだ。(中略)
本は、言葉とともに、視点を与えてくれる。世界を見つめる視点を増やすことは、今あなたを苦しめている相手を倒す武器にはならないかもしれない。だけど、あなたの心がある一点からの圧力によって押し潰されそうになったとき、目には見えない盾を構築する要素にはなってくれるはずだ。(朝井リョウ著『風と共にゆとりぬ』より)
だから、どうか読書をしてください。