南 正人

毎年11月になると、文化庁から、「国語に関する世論調査」の結果が発表されます。僕は結構これを楽しみにしているのだけれど、今年の報告で気になったのは、「ふだんの生活の中で接している言葉から考えて、今の国語は乱れていると思うか」という質問に対して、「乱れていると思う」と答えた人が66.1%だったということです。もちろん、まだ半分以上の人が「乱れていると思う」と答えているではないか、と考えることもできます。しかし、平成11年度からは20ポイント近く、前回の平成26年度からでも7ポイントも減少しています。年齢別に見ても、ほとんどの年代で減少傾向にあり、中でも30代〜50代では、それぞれ約10ポイントも減少しています。

その理由として考えられるのは4つ。①大人がバカになった。「正しい」を知らなければ、「乱れ」は感じないわけで……。②大人が寛容になった。ちょっとくらい違和感があっても、まぁいいじゃないか、と思ってしまう。③若者が賢くなった。若者が正しい言葉を正しく使うようになった(これは、ちょっと考えにくいけど……)。④若者に言葉を乱すほどのパワーがなくなった。あるいは、言葉と関わらなくなった。「文章なんて、かったるい。スタンプと単語でほとんど会話ってできるっしょ」みたいな……。

いずれにしても、憂慮すべき事態であると僕は思っています。

言葉は変わらなければならない。もし言葉が変わらなければ、今でも平安時代の人と同じ言葉を喋っていることになります(まぁそれはそれで雅なことかもしれないけれど……)。でも、僕は言葉の変化は進歩だと思っています。ただ、その変化の初期の段階では、常に「言葉の乱れ」と言われていました。

君たちが今勉強している古典文法は、平安時代を中心にしているので、鎌倉時代の作品を読むとき、文法的に説明できないことがあるでしょう。それは「言葉が乱れた」からです。また、江戸時代の作品を読むと、「読みやすい」と思うことがあるでしょう。それは「言葉が乱れた」からです(そのことについては、本居宣長も烈火のごとく怒っています)。さらに、夏目漱石の『こころ』が古典ではなく、現代文の教科書に載っているのは、言文一致運動のおかげですが、あの運動だって、当時は相当数の人が「言葉が乱れた」と憤慨していたはずです。

もう一つ、言葉が変わらなければならないと僕が思う理由は、「言葉は概念」だからです。言葉が変わらないということは、概念が変わらないということです。「アラサー」は、この言葉が生まれた頃には、30歳前後の女性が特別な年代だったからです。それが今は「アラフォー」がその概念を引き継いでいます。また、生徒同士の会話で、先生に対して敬語(「先生が仰っていたよ」「いや、先生はそんなこと仰っていなかったよ」なんて感じの……)を使わなくなったのは、戦後だと思うけれど、これも良い意味でも悪い意味でも「先生」というものの概念が変わったからです。

だから、言葉は変わらなければならない。新しい概念を生み出さなくてはならない。そして、それをリードしてきたのはいつの時代でも若者で、大人は必ず「言葉の乱れ」として猛烈な非難を浴びせてきました。逆に言うと、大人の猛烈な非難があったからこそ、若者はそれに反発して、言葉を乱していった(言葉を進歩させていった)のだと思うし、大人の猛烈な非難に耐えられた言葉だけが(概念だけが)生き残っていったのだと思う。

でも、僕が言いたいのは、もちろん「だから君たちも言葉を乱しなさい」ということではありません。大人として(自戒を込めて)、君たちの「言葉の乱れ」に対して猛烈な非難を浴びせ続けなきゃということです。頑張ります。