南 正人

先日、中学3年生で、「驚くことは才能だ」という授業をやった。その中に、「手にした問いを手放さないこと」というフレーズがあった。
別に僕は「驚くという才能」にあふれているわけではないが、「手にした問いを手放さなかった」おかげで、この前とても「驚く」ことができた。

それは、2月は不思議な月だ、ということである。何が不思議かというと、28日しかないからである。(そうして時々29日になるからである)。31の日もあるというのに、どうしてそんなことになったのだろう。普通は「1月から5月まで1か月は31日で、8月から12月までは30日。で、閏年は12月31日まで」とするだろう。学校でも、1班から12班の班分けをする時、「2班だけ28人ね、31人の班もあるけど……」そんなことは絶対にしない。それに、もし、一人足りないとか多いとかいう場合、どう考えたって12班で調整する。「一人足りないので、2班は減らすからね」なんてことはしない。(さらに、不思議なのが7月と8月だけが連続して31日になっていることだ。1、3、5、7と来たんだから、9でいいじゃないか……と)。

ねっ、変なの、と思うでしょ? 変なの、と思わなければならないのですよ。みなさんは、「意味わかんない」と口癖のように言うのだから、叱られた時だけでなく、もっといろんな事に対して、「意味わかんない」と思わなければならないのです。
で、前述の2月の話ですが、実は理由があるのです。

紀元前の古代の暦では、1年は300日くらいと思われていて、30日の10か月でした。それで、1月から4月までは神様の名前を当てて、5月から10月までは(面倒くさかったからだろうか)ラテン語の数詞を当てていた。ところがこれだと1年で65日もズレるから、数年で季節がメチャクチャになってしまう。3年前の1月は冬だったけど、今年の1月は夏……なんて。そこで、2か月足した。10月の後にね。ジャニュアリーとフェブラリーという神様の名前のついた月を。
ねっ、これで、フェブラリーが調節の月になった理由がわかったでしょ? つまり当時はフェブラリーが年末だったのです。
じゃぁ、どうしてフェブラリーが2月になったの? という問題ですが……。
ある時どういうわけだか、「ジャニュアリーを1月にしようよ」と言い出した人がいた。僕が思うに、マーチ(当時の1月)、エイプリル(当時の2月)、メイ(当時の3月)、ジューン(当時の4月)はすべて神様の名前、ジャニュアリー(当時の11月)とフェブラリー(当時の12月)も神様の名前。ところが、(当時の)5月から10月まではただの数詞。そこで、「神様を数詞の後ろに持って行くのはあんまりじゃね?」と言い出した人がいて、「じゃ、ジャニュアリーを1月、フェブラリーを2月ってことにしたら、1月から6月まで神様の名前になって、神様も文句言わないだろ」ってことになったんじゃないかと思う。
ただ、このせいで、当時の5月から10月までの呼び名が2ヶ月ずれてしまった。ちなみに、ラテン語で8をオクトと言う(だから八本足のタコはオクトパス)。けれども、現在では2つずれて10月がオクトーバーとなった。
これで、「2月なんて中途半端な位置の月が調整月となった問題」については、解決したのだけれど、もうひとつの「意味わかんない」である「7月8月連続31日問題」が残っている。
ここにジュリアス・シーザーが登場してくる。彼は、1年が365日と6時間ということも知っていた。だから、2月は調整月として29日とし(4年に1回30日とする)、奇数月を31日、偶数月を30日とした。(なんて、すっきりとした気持ちいいことだろう!)
このままなら、「スッキリ!」したままだったのだが、ジュリアスの功績を称えるために「5番目の月」という意味で使われていた7月を彼の名を取って「ジュライ」としてしまったのだ。それはまぁいい。問題はここからで、こういうことを誰かがすると、「オレも、オレも」ってヤツが必ず出てくる。ジュリアス・シーザーの大甥(姪の息子)であるアウグストゥスだ。「オレも6番目という意味の8月に自分の名前を付けたい」と言い出して、8月を「オーガスト」にしてしまった。そうして、「なんかさぁ、大叔父のジュリアスが31日で、オレのオーガストが30日っていうの、ちょっとヤだなぁ。オーガストも31日にしようよ」ということになってしまったのだ。そこで、「いやぁ、7、8、9月と3ヶ月も31日が続くのはちょっとカンベン」と言い出した人がいて、「そうですよねぇ。じゃ、9月からは奇数月が30日、偶数月が31日ってことにしましょうか」ということになって、現在に至るのである。

この情報は、もちろん僕が調べたのではなく、ある本の受け売りである。ただ、僕が常々「意味わかんない」と思っていたことが、「問いを手放さなかった」ことが、その本を読んだことで解決し、感動したため、みなさんにも伝えたかったのだ。その本には他にもいろいろ豆知識が書いてあった。けれども、それらの知識については、僕はそれほど感動しなかったし、そのほとんどはもう忘れてしまった。なぜなら、他のことについては、「常々『意味わかんない』と思っていたこと」ではなかったからだ。
つまり、僕が言いたいのは、「常々『意味わかんない』と思うこと」の大切さなのである。教科書にあったフレーズでいうと、「手にした問いを手放すな」ということである。
いろんなことに疑問を持って欲しい。それはもう何でもいい。蟻の腸に寄生する寄生虫の卵のことでも(そんなものがあるのかどうか知らないけど)、銀河系の外側に広がる宇宙のことでも……。本当にどんなことについてでもいい、とにかく疑問を持ってほしい。
もう一度言う。
「意味わかんない」は、思考を停止するために使う言葉ではなく、思考を始めるためにこそあるべき言葉なんですよ。