命名の大切さ 草竹裕太

今、中学2年生の理科Ⅰの授業では、物理分野の「仕事」を学んでいます。この授業の冒頭は毎年決まっていて、「この『仕事』は、みんながイメージする労働の仕事とは全く別の意味だからね」と説明することから始まります。この授業をするたびに、この内容を「仕事」と名付けた人のセンスの無さを感じる。

たしかに、英語では「work」と表現します。直訳すると「仕事」になるわけですが、このworkは「労働」としての意味ではなく、明らかに「はたらきかける」のニュアンスを含んだworkだろうと思うのです。

他でも同様な不満を持ったことがあります。最近は少し落ち着いてきましたが、新型コロナウイルスが数年前に猛威を振るっていました。…新型コロナウイルス。暫定的な名称とは言え、今後普段使いするであろう菌の名称に「新型」は無いだろうと。新たな新型コロナウイルスが見つかったら、もうそれは新型ではなくなってしまうのだから。

単純に直訳してしまったり命名したりすると、このような事故が起こるわけです。世の中にはそのようなことに配慮した科学者ももちろんいます。

原子の電子殻を発見した人は、最も内側の電子殻から「K殻」「L殻」「M殻」…と名付けました。「A殻」「B殻」「C殻」…ではなく。それは、今後さらに内側に電子殻が見つかる可能性があるからです。そういうことなんですよ。

新たな発見では、発見した人やその研究グループは命名する権利を得ることができます。自分の名前を入れたり、自国の名前を含ませることが多いです。例えば、鈴木さんが発見した恐竜の化石から「フタバスズキリュウ」、日本の研究チームが発見した元素「Nh(ニホニウム)」が挙げられます。

命名は科学のロマンであり、科学に関わる者であれば「もし自分が発見したなら…」と一度は考えたことがあるでしょう。今後の教科書に自分の名前が残るかもしれないのですから。しかし、命名することには上記のような危険性もあり、慎重にならなければいけません。ただ、そのような危険性を冒してでも、私は新種を発見したら迷わずに「クサタケウオ」、「クサタケザウルス」と名付けます。科学のロマンはそれらの危険性などどうでもよくなるほど魅力的なのです。