えっと、当番回ってくるの早くないっすか。
それでも回ってきた仕事はちゃんとやるのである。これがプロフェッショナルである所以である。そういえば、本日の高校の授業で professional の定義を考えたが、「私(イマイズミ)のことをプロフェッショナルだと思う人?」と問いかけると1人の手も上がらなかった。なんてこった。
そんなアマチュアと思われているしがない語学講師には、改めてここに書くことがないので、最近授業でした話を例のごとく共有しておくことにする。
* * *
エピソード②
最近の英語教材は、タブレット上で簡単に読み上げのスピードを変えることができる。速いスピードで練習するのもいいのだが、ゆっくり正しく読むのが実は難しい。外国語は速く読めると格好良く見えるかもしれないが、実はゆっくり正しく読む方がよっぽど難しいのである。
授業で音読をした際、試しに0.5倍速で再生してみたら、そのあまりの間延びした感じが何やら可笑しく思えた生徒もいたようである。
そのとき思い出したのは、自分が中学生のときに、国語の授業で『平家物語』の朗読を聞いたときのことである。琵琶法師の語りを再現したということで、何やら興味深いと思い、私はスピーカーから流れる音に耳を傾けた。
私の想定としては、
〽ぎお~んしょ~じゃの~
かね~の~こえ~
(琵琶:ポロロン♪)
といった感じのものが聞こえてくるものだと思っていた。しかし実際に聞こえてきたのは次のようなような詠唱だった。
〽ぎいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ぃぃぃぃいぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃ~~~~~~~~~ぃぃいぃぃぃいぃぃぃいぃぃぃいぃいぃいぃいぃいぃぃぃぃぃぃぃぃいっぃぃぃぃぃ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ぉぉぉぉをぉぉぉぉぉぉおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉおぉおぉおぉおぉぉぉ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~おぉぉぉぉぉぉおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおお~~~~~ンんんんんんんんんん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・sssSしょぉぉぉぉぉヲおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉ~~~~~~(以下略)
その足取りのあまりの遅さに私は度肝を抜かれ、冒頭だけで日暮れますよと独りごちた。眼前には神妙な面持ちで聞き入っている先生の姿あり。そのイノセントな様子に目を疑い、もはやどこを読んでいるのかもわからないほど永久に間延びする母音に耳を疑い、そのときの私は、それこそ春の夜の夢の中にいるかのような気分であった。
だいたい、『平家物語』とは、授業で扱われるのはほんの一部であるが、通読するとなればたいそうな長さになる大長編である。そんな作品を、かくのごとく蝸牛の速度で読んだ暁には、どんなことになるか。おそらく壇之浦へと至るまでもなく、おごれる者も謙虚な者も、等しく滅びて塵になっちゃいますよん、などなど、一行も読み終わらぬ内からどうでもいい突っ込みが次々と湧き上がってくるのである。
その後読んだある本に、「謡とは普通に読めばわかるものをわざわざわからなくするものの云いである」などといった記述に出会ったことがあるが、妙に納得できたわけである。いやはや至高の芸術というものは凡人にはよくわかりません。
とにもかくにも、その後、海外の古典文学を研究することになった私は、『イリアス』も『アエネイス』も『ベオウルフ』も、名だたる読み手の朗読に触れてきたのだが、あの『平家物語』との出会い以上の衝撃を受けたパフォーマンスには、ついぞ出会ったことがない。