はじめまして。本年度より和歌山信愛高等学校で勤務しております、庄禮愛那と申します。担当は高校二年生の国語です。
さて、早いもので四月に入職してから一か月以上が経ちました。個人的な環境の変化にも慣れ、信愛という学校のことも徐々につかめてきたように感じます。わかば祭や信愛フェスタなどの行事も終わり、いよいよ中間テストに向けて校内の空気も引き締まってまいりました。
信愛に来て驚いたことの一つに、生徒の皆さんと教職員の皆さんの距離の近さがあります。試験前で職員室への入室が禁止されている現在も、授業内容や試験範囲への質問を中心に、先生方と生徒の皆さんは和気あいあいとさまざまなコミュニケーションをとっています。かく言う私も、四月当初には初めて会う生徒の皆さんとのかかわりに対し若干の緊張があったのですが、積極的に質問をしに来てくれたり、雑談をしてくれたりする皆さんのおかげで気持ちが楽になりました。このようにして数年間の時間をかけ、ゆっくりと培われた人間関係が、進路状況や部活動の成果に結びついているのだなと実感しています。
話は変わりますが、国語科教員らしい話もさせていただこうかと思います。最近、『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク著/池田真紀子訳、光文社古典新訳文庫)を読みました。SF作品としてはとても有名な古典的名作なので、いつか読んでみたいと思っており、五月の連休を利用して一気に読み終えました。姿の見えない地球外生命体とのやりとり、彼らの目的、最終的に地球人類がたどった結末など、常に続きが気になってどんどん読めてしまう面白い作品でした。長年読み継がれてきただけあって、そういった読ませる力、続きを想像させる力にあふれた作品でした。現代文における論理的文章の読解ではよく「批判的思考」が取り上げられますが、自分が当たり前だと思っていたことを疑いの目を持って見つめなおし、別の側面を発見するという批判的思考は、地球は世界のすべてではなく、もっと途方もなく大きな宇宙の一部でしかないという古典的SFの内容と重なるところがあるでしょう。小説や詩などの文学的文章が教科書や問題集から遠のきつつある現在ですが、個人的には文学的文章と論理的文章は厳密に二分されるものではなく、このように根底では多くを共有していると思っています。
長々と失礼いたしました。今後ともよろしくお願いいたします。