2020年はどんな年?   山本茂樹

2020年を迎えました。
下一桁が0年で何となくキリがいい年だな、と思っていると、干支も庚子(かのえね)でねずみ年です。子は十二支の一番最初の年ですから、こちらも何となくキリがいいですね。縁起のいい年になりそうな予感がします。

2019年の年末はテレビ番組の特番が多くやっていたので、テレビをご覧になられた方も多いのではないでしょうか。
M-1グランプリのミルクボーイ。あんな漫才があったのか!と衝撃的でしたね。本校ではあまり職場での話題に上らなかったので、ちょっとこの場を借りてこの話題に触れてみたいと思います。

ミルクボーイの漫才をダウンタウンの松本人志は「行ったり来たり漫才」と名づけました。ご覧になっていない方のために少し解説するならば、ミルクボーイはボケ役?の駒場孝とツッコミ役の内海崇の二人からなる漫才コンビです。ネタは独特で、ボディビルをやっていて筋骨隆々としている駒場が「おかん(母)が何だったか思い出せないもの」の特徴を上げるのに対し、内海が「〇〇やないか」「〇〇と違うやないか」と行ったり来たりする漫才スタイルです。予選の題材は「コーンフレーク」でした。駒場が「パフェのかさ増しに使われる」とふると、内海が「コーンフレークやないか」と断言します。しかしそのすぐ後、「精進料理でお坊さんが食べている」と改めてふると「コーンフレークと違うやないか」と応じるのです。この時、内海が「これ以上アイス減らしてコーンフレークの段数を増やすんやったら俺は動くよ」であるとか、「コーンフレークは朝楽して食べたいという煩悩の塊や。お坊さんは食べへん」であるとか、ことさら大げさにその理由を説明します。駒場は困った顔をしてちょろちょろと呟くだけですが、内海の振れ幅の大きさがこの漫才を面白くしているのです。

従来、漫才はダウンタウンやカミナリに見られるように、ボケ役のボケに対してツッコミ役がいかに激しくツッコムかが、お笑いを生み出すポイントでした。しかし、このミルクボーイの漫才は、困っている駒場のために、内海が一生懸命正解を探すというスタイルをとっているのです。いわば人助けを笑いに変えているのであり、これがミルクボーイの新しさです。

また、同じく決勝に進んだぺこぱというコンビの漫才も斬新でした。同じく松本人志は「ノリ突っ込まない漫才」と名づけましたが、ヴィジュアル系バンドのような外見の松陰寺太勇が一応ツッコミ、普通の外見をしているシュウペイがボケ役となっています。どのような漫才かと言いますと、タクシーのネタではシュウペイが運転する様子を見せる際に、手をものすごく下において「ブーン」と言うのに対し、松陰寺が「ハンドルを持てよ!」とツッコムのかと思いきや、「ハンドルを持たなくてもいい時代がそこまで来ている!」とツッコミ?ます。このスタイルも従来にないもので、ぺこぱも準決勝では高評価となりました。

これら二つの漫才に共通しているものは何かと考えた時に、ある論考では「優しさ」であると論じていました。確かに、ミルクボーイの内海は駒場のおかんが思い出せないものを必死に考える「優しさ」を示していますし、ぺこぱの松陰寺もシュウペイの典型的なボケに対し、そのボケを否定するのではなく、なるべく肯定できるポイントを探すという「優しさ」を示しているのです。この「優しさ」がほぼ無名だった両コンビの大躍進を生み出したと言っても過言ではないかもしれません。

これは非常に示唆的なことです。つまり、我々は知らず知らずのうちに「優しさ」を求めている、と言えるのではないでしょうか。ネットの世界ではすぐにバッシングが行われます。それに反論をすると、さらなるバッシングが始まり、いわゆる「炎上」という状態になります。まったく悪意がなく、むしろ善意で書いたことに対してもネットでは攻撃が行われます。匿名性の高いインターネットの世界では、人間はきわめて攻撃的になることが実証されています。言わば我々は「優しさ」に飢えた状態であり、それゆえ、「優しさ」に溢れた漫才を展開するミルクボーイとぺこぱが評価されたと言えるでしょう。

2020年は東京オリンピックが開催されます。外国から大勢のお客様が訪れるでしょう。「おもてなし」は流行語にもなりましたが、我々はその「おもてなし」の根底にある「優しさ」を忘れてしまっていないでしょうか。今こそ、「おもてなし」の原点とも言える「優しさ」を取り戻し、それをあまねく及ぼしていけるように生きていくことが求められているように思います。